私が通っていた高校は、とても自由な学校でした。
制服はありましたけれども、セーターとシャツは色が決まっているだけで、丸首・Vネックなどは好きにしてよかったですし、ブランド・メーカーの指定もありませんでした。スカート丈も自由。正装すべき特別な日以外は、ソックスの丈も色も自由、靴もローファーであれば何でもよかったような記憶です。髪の色・長さ、パーマも自由でした。
(確か、風紀検査みたいなものが時折あったのですが、それは先生じゃなくて先輩がやっていて、その時だけはピアスは外したりしていたような気がします。あれは何の目的だったんだろうか・・・。)
けれども、同時に、先生方からは、こんなことも言われていたと思います。
自由は責任を伴う。
自由の享受は信頼の証
今思えば、自由に生活させてもらえていたのは、学校や先生方が私たち生徒を信頼してくれていたからだとわかります。
いろいろやってみたいお年頃。けれども、君たち、人の道を外れることはしないでしょう。
自分で節度はわかるでしょう。
何が適切か、自分で考えられるでしょう。
服装を自由にしたからといって、学問をしないわけではないでしょう。
勉強しなくたって、自分の人生は自分で考えるでしょう。
もし仮にこの自由と責任のバランスを乱す生徒が生じても、ひとりひとり、自分で考えて行動するでしょう。
各家庭の親たちもこれを了解していたと思われます。
もし生徒の多くがこの信頼を裏切ってしまったら、
学校としては、学校を運営するために、あるいは他の生徒の安全を守るために、
強硬手段に出なくてはならなくなります。
何もかも指定して、制限していく必要が生じてしまいます。
生徒はもう、自由を享受できなくなります。
人間は、いつも自由を求めて闘ってきたと思います。
基本的人権、土地に縛られない自由、物質からの自由、精神的な自由。
この人たちに自由を与えてしまったら、自分の立場が、安全が、おかしくなるんじゃないか。
それを許してしまったら、社会はとんでもないことになるんじゃないか。
その怖れに向き合いながら、人間社会は、少しずつ、自由を広げてきた。
時には、血を流す惨事も伴って。
強制は思考の停止、自由を手放すこと
この数日、今までにも増して、新型コロナウイルス対策として緊急事態宣言を出すかどうかというところに関心が集まっているのを感じます。
正直なところ、当初、ネット上で緊急事態宣言を求めるコメントがたくさん出ていることにとても驚いていました。
自由を手放したいの? と。
普段は国民の行動を制限する国の方が、「緊急事態宣言を出すことは、国民の基本的人権を制限することになるから慎重に検討している」というのに、
自由を要求してきた国民の方が、「緊急事態宣言を出してくれ」と叫んでいることに驚くとともに、
こういう局面になると、人は自由を手放すのだ、という歴史の一幕を見せつけられているような気もしています。
強制されなければ、行動は変えないよ。
私は自分で考えて”正しく”行動しているけれども、”あの人”たちはそうではないから強制してほしい。
強制してくれた方が、自分で考えなくていいから助かる。
強制してくれた方が、国の責任になる。補償も請求できる。
とにかく”何か”手を打たなくてはいけないから、宣言が必要だ。
あるいは、「人は強制されなければ行動を変えない」という、諦めの人間観からからこれを求める方もいらっしゃるのかもしれません。
自由を失うという代償を払っても、不安が募る状況では、人はこういう思考になるということに、「そうなのか・・・」と、何とも言えない気持ちになります。
本来、日本人はこういうときに、各々で考えて自制したり、自主的に協力できる国民性ではなかったかしら、とも思いつつ。
強制力を伴う措置を発動している国が多い欧州の中で、国民の責任感と自制心を信じて独自路線をとっているスウェーデンに注目していますが、何が正しい策なのかは、多分数年後に検証するまではきっとわからないのだろうとも思います。
自由は一度手に入れたら終わりではなく、
その自由を享受するためには、自分で考え行動し続けていくことが必要なんだ、
それは、決して楽なことではないんだ、
ひとりでやっていればいい話ではなく、それを社会の皆でやっていく必要があるんだ、
「自由が欲しい」って人は簡単にいうけれど、自由ってとても大変なことなんだ、
と改めて思う今日です。
超個人的には、散歩までもが禁じられるようなことにはなってほしくないと思います。
適度な運動と太陽の光を直接浴びることは、肉体・精神両面の健康に必要と思います。
今、読まなくては、と思う本:
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