コーチング・セッションを受けている時、体験学習をしている時、リトリートの期間中などに、
「何か、すごく大切なことを感じ取った」
「何か、すごく大事なことがわかった」
と感じるときがあります。
「何か」は自分では感覚的にはわかってる。
でも、この「何か」をキレイかつわかりやすい言葉や文章にしようとすることは、とても難しい。
大事なものほど、言葉にならない。
言葉にしようとすると、何かがこぼれ落ちるような感覚があります。
まるで、雲をつかむかのように。
(Simon SteinbergerによるPixabayからの画像)
そのフワーッとした、慣れない状態に居続けてみる
私は自分がコーチング・セッションを受けた後1時間くらいは、予定を入れないようにしています。
体験学習をリードした後も、少なくとも1日、できれば2日間は予定を入れないようにしています。
肉体的な疲労のケアというのもありますが、とても深い時間を経験した後は、意識が開いているので、その時間を大切にしたいというのもあります。
波が静まっていくように、大地に雨が染み込んでいくように、いろんな気づきや学びが、ゆっくりと自分の体に染みていく。
そしてその過程の中でだからこそ、気づくこともある。
できるだけ自然なペースで、自分にそれをさせてあげたいと思います。
言葉にすることで失われるもの
読書好きですし、ブログを書くくらいですから、私も、言葉の力や言葉にすることの意味を大いに信じる者の一人です。
ただ、言葉にすることで失われるものもあると感じています。
例えば、昨日の記事でもご紹介した通り、羽黒山の山伏・星野先達のお話を伺った際には、修験道での教えは全て、口伝だと。メモは取らせないと。
また、ヴィパッサナー瞑想では、10日間のコース期間中、メモ禁止でした。
物理的にも、文房具や電子機器は預けさせられますので、何かを記録することが一切できません。
指導も印刷物等の配布は一切なく、教わることの全ては講話を通してでした。
この設定には他の意図もあると思うのですが、読むこと・書くことが集中的な瞑想体験に与える影響を考慮しているのではないかな、と勝手に想像しています。
(本は出版されているのですが、私は、事前に読まずに臨みました。一応持って行ったものの、預ける対象になりました。)
自分の感覚としても、感じたこと、わかりかけていることを安易に言葉にしてしまうと、せっかく広がったものが収縮する感じがあります。
言葉にしたことで、人為的に輪郭が作られ、その輪郭の外にはみ出た部分が削ぎ落とされてしまう感じ。
ある頃から、何かを感じたときは、それが深ければ深いほど、安易に輪郭をつくってしまいたくない、と思うようになりました。
そこにこそ、何か大事なものがあるような気がして。
急いで言葉にするよりも、言葉が降りてくるのを待つ
そういう一方で、気づきや学びを自分なりの言葉で表現できると、それらがより確実に自分の血となり肉となる感覚もあります。
ただ、それは、そんなにすぐにはできない。
むしろ、それが容易でないほど、大事なものを感じ取ったと言えると思います。
おすすめは、頑張って急いで言葉にしようとするよりも、言葉が降りてくるのを待つ。
まるで、つかめなかった雲から雨か雪でも降ってくるかのように。
その待っている間にも、言葉の断片や鍵となるフレーズが湧いてきたりすると思います。
そういうときにオススメなのは、手書きのジャーナル。
頭にふっと湧いたことを走り書きしておく。
ちなみに私は最近、これをノートではなく、裏紙で作ったメモ帳でやるため、部屋の中にこのメモ帳が散らばったりしがちです。
そろそろ輪郭が見えてきたという頃に、その散らばったメモも材料に、このブログにまとめて自分の中に落として、それからその走り書きを処分しています。
他にも、例えば、人と対話する中で出してみる。
議論というよりは、思いついたものをふっと出せるような環境で。
コーチと話してみるのもとても良いと思います。
きっとコーチが、さらにその体験を深めてくれると思います。
コーチング・セッションを提供するときに、気をつけていること
私は言語化するのが好きな人間だという自覚があるからこそ、コーチング・セッションを提供するときには、とりわけ気をつけていることがあります。
それは、クライアントさんに起きているように見えることや、感じられているように見えることに、安易に定義づけをしないこと。
言葉にならない世界を、分析的なインパクトで壊してしまいたくないから。
クライアントさんが「モヤモヤする」といえば、それはまずは「モヤモヤ」なのであって、いきなり「不安があるんですね」みたいなことは言わないようにしています。
よく本を読まれたり、よく考えたり、頭の回転が早いクライアントさんの場合は、ご自分なりに素早く心を分析して「不安なんですよね、きっと」なんてご自分で解釈されることも起こりがちなのですが、そういう時は、その解釈や定義づけの前に戻ってもう一度一緒にその居心地の悪さを体験してもらうようにお誘いしたりします。
存分にそのモヤモヤを味わい、その世界を探求した後で、上記でいうところの言葉が降りてくるような頃になってから、こんなことを感じているのかしら?と湧いてきたものを、言葉にすることを試していくようにしています。
言葉になっていなくても、伝わってる
自分がわかったことを、完全にそのままに、相手にも理解してもらおうと思うと、それは本当に難しい。
そのもどかしさ、試行錯誤でぐるぐるするところから頭をふっとあげて、周りを見てみれば、あたたかい目でこちらを見ていてくれる人がいる。
「何か、あなたにとって大事なことがわかったんだね」と。
その眼差しに触れると、何だか、もう、それで十分と思えます。
私が何か大事なことを学んだ。また少し、私の幅が広がった。
それを知ってくれている人がいる。その喜びをわかってくれる人がいる。
何であるかが完璧に伝わっていなくても、私が喜んでいることを一緒に喜んでくれる人がいる。
それだけで、そこに、つながりを感じます。
満たされる気持ちになります。
そんな仲間に恵まれていることに感謝しつつ、
私自身もそんな眼差しを送っていられるコーチでありたいな、と思う今日この頃です。
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